約1100年弱前、紀貫之が仮名文字(女性が当時は使った)を敢えて使って、国司の任期を終え、京に帰るまでを日記風に書き残した作品が「土佐日記」である。
土佐を離れて、京の都まで55日間の旅路であった。
2ヶ月の旅程であるから遠い地と思うか?当時の政権の範囲として別に距離感を感じたか?否かは解らない。
ゴールデンウィークが始まった。
4月29日から5月1日まで2泊3日で高知(土佐)に行って来た。
朝6:30に静岡を出て、昼12:30の高知駅で、6時間掛かった。
到着して「ひろめ市場」で昼飯を食べた。
今回の旅行の目的は2つ。
①「ビオスおおがた」に行って、Dさんと会う。
②鯨料理を堪能してくる。
(この件はブログ「三大」( https://www.daiichi-printing.com/blog/04/11697/ ) で書いた。)
この2つが目的であったが、「うつぼ料理」を何回も食べる機会が有って、初めての体験で楽しかった。
「三大ガッカリ」の「はりまや橋」は期待通り?「ガッカリ」する程、小さくて、これも楽しかった。
やはり高知である。
鰹の「タタキ」が何処でも藁焼きの演出で提供されていた。
静岡も鰹の刺身、タタキは名物ですが、高知では醤油の代わりにほとんどの店で塩の提供であった。
そして静岡では薬味としては「生姜」であるが、高知では「にんにくの小片」が普通であった。
翌日は高知市から約2時間掛けて、黒潮町の「ビオスおおがた」に行って、知人のDさんと10年振りの再会を果たした。
LINEやメールで話をしているので、距離感を今まで感じた事は無かったが、実際に高知市から車で2時間、静岡からでは本当に遠い場所で驚いた。
Dさんと会った後、「四万十川」を一寸見て、桂浜まで戻って来た。
桂浜では坂本龍馬像を見て来た。
こちらは「はりまや橋」と違って、想像以上に大きくて立派であった。
昭和3年に建立と言う事が記してあったが、有名な観光スポットになっていた。
駿府城も早く作って50年も経てば、全国から人が集まるだろう。
坂本龍馬が京都で暗殺されたのは31才の時だったそうだ。
四国連絡橋が出来る前、本州と四国との交通手段は船舶であった。
龍馬の時代、京まで行くのにどのくらい掛かったのであろうか?
31才で暗殺される間に「日本の夜明け」を考え行動した。
限られた時間の中で時間の掛かる交通手段、通信手段の中での偉業である。
僕達は現在、新幹線(ひかり → のぞみ)→ 土讃線 → レンタカー との交通手段を使い、通信は携帯、メールで瞬時に繋がり、龍馬の時代とは格段のスピードの早さである。
そしてダボは、龍馬の年令の倍以上生きているが、全く近視眼的で先が見えない。(自分自身を今一度再認識する時間はない)
もう少し現在を生きているダボは残り人生の時間を大切にしなければと思った。
連休前半の思い出でした。
(人生残り時間は少ないから、有効に使おう!!)
(と言うことは・・・今一度、命の洗濯を致し候)
(相も変わらず、これでは駄目だ!!)
記 ダボ・イトウ