昭和20年の3月10日、つまり80年前の今日、父(伊藤勲)は、満州の部隊から、一時東京に戻って来ていた。
何故か?と言うと、満州はそれまで日本統治下で、安定していたが、昭和20年に入ると、不穏な風が流れ始めて来た様で、部隊長が、
「伊藤、家内と子供達を本土に戻そうと思うので、東京まで連れて行け」
と命じた。
それで父は、奥さんと家族を連れて、東京に居た。
そして今日(昭和20年3月10日)、東京で米軍の無差別攻撃(米国側の表現は、戦略爆撃)に遭遇した。
この日、前年(昭和19年)の11月から始まっていた空襲は、軍需工場を対象としていたが、効果が薄いので、爆弾を焼夷弾に替えて、300余機のB-29が、約38万発余りの投下を、真夜中に開始した。(高高度で進入)
(戦時法では、軍事施設への攻撃は認められているが、一般民間対象は違法である。)
日本の家屋は木造が多数なので、火事には弱い。
この空襲で10万余人の死者が出た。
父は、この空襲を経験し、「本土はなんて危ない処だ!!」と思って、無事部隊長家族を届けた後、慌てて満州に戻ったそうだ。(東京に戻った家人達は無事であったか?)
その後、5月に南方戦線への移動が下令され、危険な海を渡り、四国で南方行きの船を待っていたが、もうその当時は船舶の用意が出来ず、四国で終戦を迎え、生き残った。
(復員の時の話は、以前ブログ「大八車(https://www.daiichi-printing.com/blog/08/6424/)」で、書いた事がある。)
父は生前、
「軍隊は運隊だ!!」とも、
「生死は紙一重」とも言っていた。
表裏一体である。
※禍福はあざなえる縄の如し
記 ダボ・イトウ