早いものであと一ヶ月も経つと九州より新茶の便りが来始める。
種子島からの採摘は、ここ、お茶の本場と言われた静岡より1ヶ月早い。
「九州のお茶なんかに負けるものか!」と言っていた静岡茶業界人の地位は確実に脅かされつつある。
生産は、気候の地理的な要素が有るので、首都圏に近い静岡の地理的優位性は、交通の便・物流の進歩に依って必ずしも特異性が維持されているとは言えないのではないか?
私達、今日現在をこの地で生活している者は、この静岡茶の伝統と価値を次世代に引き継ぐ責任がある。
確かに静岡の茶畑の様に、狭隘な場所に作るよりも、知覧(見たことはないが)の様に平地で大規模に生産した方が効率的ではあろうが、私達は先行していた先達の遺産を引き継いでいるのだから、負ける訳には行かぬ。
負けると言うと、70年前、太平洋戦争に敗けた。
知覧はお茶の産地としての他、特攻基地としても知られている。
明後日(3月15日)からこの知覧に行って来ます。
九州2泊3日の旅です。
知覧の特攻記念館を訪問する事も、指宿で砂風呂を体験する事も目的の一つです。
知覧は、薩摩半島側に地位するが、反対側の大隈半島側にも特攻基地として多くの特攻隊が出撃した鹿屋基地が有った。
20代前半の若者達が年配者(上官)の命令に依って死地に向かった。
年配者の方針(指揮)は責任重大である。
僕も会社の年配者としての方針に責任が有る。
特攻を生み出した責任を、大西瀧治郎中将は、終戦の大勅が降りた翌日の8月16日、割腹自決をして、尚その後の介錯を拒み12時間以上の苦しみの中でその責任を取った。
大分基地から同じ様に責任を取ると言って、宇垣纒中将(陣中日記「戦藻録」が有名)が、艦爆「彗星」11機23名と共に(不時着3機5名生存)玉音放送の後、沖縄に突入した。
この責任の取り方に異論も数多く有る。
停戦が決まった後の、私兵として若者を死に追いやった暴挙だと言う意見や、軍令違反という声もある。
艦爆彗星は2人乗りで、11機と言うと飛び立つ人数は22名と言う事であるが、一名(遠藤飛曹長)が宇垣中将の交代要請を拒否して3人で突入していった。
インパール作戦の牟田口中将や、マニラから台湾に命令前に帰ってしまった富永恭次第4航空司令官の様な人の責任を取らない人も、もう歴史の過去の中に埋まってしまっている。
僕は公人と称する人達が無謬性という免罪符を持つ制度が嫌いだ。
僕は下の娘に常に言っている。
「父さんは責任はある。教養はない」と!!
鹿児島に行ったら、ビジターとして夜の消費を喚起する責任が有る。(どの様に理解しても可)
持ち出した物は返す責任がある。
ブログは帰って来てからまた書きます。
暫しお休み。
お土産話だけ、待っててね〜。
記 ダボ・イトウ