僕達の会社はパッケージを中心とした印刷会社である。
印刷会社は、医療機関が内科・眼科・外科と専門分野が分かれている様に、得意とする技術が有る。
我が社の現在の自信を持って紹介出来る事の分野は、
①紙で丸筒をつくる「かみ缶」 ②小ロット対応の演出が出来る合紙パッケージ ③印刷物から動画へ導くAR技術を使った「ムーブコンテンツ」
そして、今年年末へ向けて事業化する ④「ギフト市場に多彩な構成をもたらす(省力化アッセンブリー機械)」という、平成28年度ものづくり支援に採択された事業ということになるのだろうか?
この十年来私達を取り巻く環境は、創業から培ってきたパンフレット、カタログ、伝票等は、今ではパソコン、プリンターに取って代わって、自然と受注も少なくなって来ていて、将来この分野での仕事はおそらく消えゆくものとなってしまうだろう。
弊社は、今期法人65期を迎える記念の年度である。
65年前と言うと昭和28年になる。
この時の話は一昨年「決算」と言うタイトルでブログを書いてあります。( http://www.daiichi-printing.com/blog/02/3031/)
この65年前、第一印刷の主要受注アイテムは、缶詰のラベルであった。
この当時のスクラップアルバムを再見してみると、当時の世相が解り面白い。
鰹フレークや、白桃ラベルなどは今でも商品として陳列されているが、近頃はミンク鯨やあさり、竹の子煮なんて缶詰はあまり目にしなくなった。
時代の流れとともに、消え去る運命だ。
万物は避けては通れない。
ただその時間が短いか?長いか?
先日、次女が古書?展示会とかに行って、
「父さんが嬉しがる本をお土産に買って来たよ。」
と言って、この本を買って来てくれた。(よく僕の事を理解している)
売春禁止法が制定され、赤線の灯が消えたのは、昭和31年だから、昭和26年生まれの僕はまだ5才。
当然、『早咲き』( http://www.daiichi-printing.com/blog/01/3763/)で書いた僕も登楼した事は無い。
今では、二丁町も跡形もなくなり、当時の面影を残すものは全くなくなっている。
早咲きの僕は、20才前後に貸席と言う処へ行ったり、今の駒形の変電所の裏側にあった「辰●●」と言う場所に出入りしていたが、今、そこを通っても全く変貌を遂げ、青春の記憶は特に消え去ってしまっている。
ここに出入りした時、一緒に居たのは「田中屋」のEMさんだとこれだけは忘れない。
10日頃の新聞に、七間町に有った扇屋(和菓子店)の記事が載っていたが、子供の頃、母親がよく連れて行ってくれて、ホットケーキに蜂蜜とバターを掛けて食べさせてくれた扇屋の、隣に有った「くろがねや」も有名な金物店であった。
扇屋の名前は確か、記憶では、その昔読んだ泉鏡花の「婦系図」に名前が載っていた様な気がしているが確かでない。(一寸調べれば良いが、時間が取れなくスミマセン)
何でも時代と共に消えてゆく。
ホットケーキを食べさせてくれた母も平成18年になくなって、現世から消え去った。(彼の人も消え去った。)
でも、心の中には何時でも姿は残っている。
会社もなかなか厳しい時代であるが、消える訳にはゆかぬ。。。
頑張らねば・・・。
ダグラス・マッカーサー元帥
「老兵は死なず ただ消え去るのみ」
記 ダボ・イトウ