安倍川の安西橋を渡って、右折すると、安倍川の堤の道路に入る。
30m程して右を見ると、雪を被った富士山が綺麗に見える。
空気も冷たく乾燥しているので、この時期は余計はっきりと美しい。
24年前の今日(2月22日)、僕は母親と一緒にこの富士山を車の中から見た。
父も一緒に乗っていたが、父(勲さん)は見る事は出来なかった。
3日前の19日、父は市立病院で81歳の生涯を閉じた。
10年近くにわたる肺気腫との戦いに終止符を打った。
2日後の21日に、自宅で通夜を行って、22日の今日、火葬の為、母と兄と斎場に向かっている時に、富士山を見た。
あれから24年。
時代は様変わりしている。
平成11年の父の時は、お通夜を自宅で行った。
この日の夜は、寒いなんてものではなかったらしい。
(僕等は2階の部屋で弔問のお客様と会っていたのでわからなかった。)
2階に祭壇を設置したので、狭い家で階段を昇る人、降りる人で時間が掛かった。
下の入口では、大勢の人が行列になって待って頂いた様だ。
階段下の処には、石油ストーブを数台用意しておいたが、寒風の中では全く役立たなかったと後で聞いた。
親戚のおばさんから初七日の払の席で聞いた話では、「あまりに寒くて下で待っていられなくて、『親族ですから失礼』と言って先に上がって来たよ」と。
その時は色々とバタバタしていたので、気付かなかったが、駐車場を用意しておかなかったので、皆さんには何処かに車を置いて来て戴いたと思う。
収骨が済んで、葬儀は家の近くの東本願寺別院で行った。
焼香を皆様から戴いた時、本堂内と本堂前に焼香台を置いて、弔問客様に挨拶をした。
本堂には、あまり人が入れないので、母と兄が立ち、本堂前に僕が立って御礼申し上げた。
時は変わり、24年が過ぎた。
47才だったダボは71才である。
父は81才で亡くなったので、父の年齢までは後10年しかない。(10年もあると考えるか?)
父(伊藤勲)の人生アルバム
この24年間を少し振り返ってみると、変化が大きい。
この時は自宅通夜であったが、近頃、葬家自宅に、通夜に出掛ける事は全くない。
此の頃は、すべての通夜の式は、葬儀会館で行われる。
従って前述の様な駐車場の心配をしなくても良い。
この変化もコロナ時代に於いて、またまた変わっている。
近頃は、通夜式で、導師様の読経は親族関係の方しか着席しない。
一般客は焼香のみの参列なので、駐車場もドライブスルー感覚で、あまり広いスペースを必要としていない。
そして、通夜に平服で来る人はほとんど居ないし、翌日の葬儀、告別式よりも通夜式の方が参列者が多い。
従来、静岡の地は「後返し」の地域であって、香典をお持ちすると、「香典返し」をお渡しして、七七忌が終わった時、忌明けの返しをする事が普通であったが、これも大きく変わり、「即返し」の地域として変わってしまっている。
昨年末に、永い間勤務していただき、ゴルフも一緒にやったS氏が亡くなり、先日奥さんが「忌明け返し」を自宅まで届けてくれた。
古来からの風習も、作法も、色々と変わる。
葬儀の後の払いの席(近頃はコロナ禍なので、あまりやらない)で、昔は精進料理が出されていたが、近頃は刺身が付いてこない料理はない。
会社の仕組みも、方向も変えないと、時代についてゆけない。
※まして、人の心の変化は大きい。これを心変わりと言う。
※弊社メモリット事業も開店休業中である。
(メモリット | 第一印刷株式会社 (daiichi-printing.com))
記 ダボ・伊藤