先日、友人のお母様が亡くなり、お通夜に行って来た。
彼の家の宗旨は、神道であったので、神葬祭と言う仕来りで行われた。
祭主(神主)が式の始まる前、
「皆さんはあまり神葬祭に出る機会は少ないでしょうから」
と言って、玉串の奉呈の仕方や、忍び柏手の方法を最初に教えてくれた。
私達が葬儀に参列すると、多くの場合、仏式で行われる。
日本人の原始的宗教観は、自然崇拝から始まった神道でないかと思う。
天皇はこの神道を司る昔からの最継承者である。
現在、日本人の多くは、神道に対する行動は、新年の神社参拝、七五三の時のお宮参り、お祭の時の神輿担ぎなどになっている。
太平洋戦争の原因が「国家神道」であったと言う指摘を受け、日本人はこの神道から遠ざかっている。
過度の対処は色々の問題を生む。
最近の中韓との関係も、あまり低姿勢が過ぎた様な感じもしなくはない。
何でも征き過ぎると反動が起こる。
今まで無かった「嫌中」とか「嫌韓」と言う言葉が生まれて来る。
中庸が一番だが、この位置が人は解らない。
歴史に残るナポレオンもヒットラーもロシアと言う征き過ぎた攻勢終末点を越えた。
東大卒より難しいと言われる、陸大や海大を出た人達がガダルカナルまで攻めて、補給路がのび切ってしまって負けた。
これが攻勢終末点となった。
常に中庸を求めたいが、この位置は、時と言う流れしか解らない。
今の社会は時代が過ぎてから、どの位置にあるか知る。
しかし、この時代の作り手は、今、生きている私達だ。
それにしても、昨年『信条』(http://www.daiichi-printing.com/blog/08/1392/)と言うタイトルで書いたブログではないが、神道中心であった日本が、人民の安寧を願い、仏教を取り入れた事は凄い決断であろう。
その当時の人が、今の神道と言われる宗教観を眺めたら、如何に思うであろう?
記 ダボ・イトウ