1998年(平成10年)2月24日は、父親が入院した日である。
この前4年間は、酸素ボンベを使用した生活であった。
肺気腫を患っていた。
この時は、5月21日までの約3ヶ月の病院生活であった。
僕は、毎日、病室に寝泊まりした生活で、毎朝6:00に家に帰り、風呂に入り、出勤すると言うパターンだった。
病院も3ヶ月も経つと、色々なものが見えて来て、その当時は待合室の長椅子に寝ているサラリーマンが何人か居るのを知った。
寒い2月だけど、暖房が入っていて暖かく、椅子は無料簡易ベッドと言うわけだ。
その前年はまだ僕はマラソンをしていて、雨だったので、マラソンランナーが病院内で着替えをする姿を見て、何でも皆、よく考えるなあと感じた。
その時、医者の先生には、
退院は難しい。余命少し。
と言われたが、何とか退院出来、翌年の2月12日まで自宅で静養していたが、
2月12日は少し熱が出たので、金曜日で明日になって病院が休みになると対応が困るので、病院に連れて行った。
その後、症状は急激に悪化して、
2月19日、80年の人生の終焉を迎えた。
大正7年生まれの父は、20才台は軍隊生活、30才で印刷業界に身を投じ、僕達兄弟を育ててくれた。
父の葬儀の時、弔辞を述べてくれたのは、関東軍、第6国境時に戦友だった佐藤の叔父さんだ。
年は同じ齢なので、今年はもう97才だ。
もう一人、会社の社会保険労務士の高桐先生も同じ齢だ。
現役でコンピューターを扱い、業務をこなす。
その先生が、今年で引退したいとの申し出があった。
40年来のお付合いである先生の話に寂しさを感じ、
父も生きていれば97才になる。
今月19日は父の17回忌になる。
家族で墓参りに行って来よう。
記 ダボ・イトウ