ブログの終了まで、あと7本、アーカイブシリーズ第3章です。
2014年3月19日のタイトルは、「太閤さん」(http://www.daiichi-printing.com/blog/03/1689/)であった。
この時のブログを読み返してみると、ロシアのウクライナ併合の事件があった。
あれからまだ5年しか経っていないが、既成事実として時の流れに組み込まれてしまっているので、北方領土の交渉は当分返還されないだろう。
その中でもう一つ記してあった事は、人類の歴史は戦いの歴史とも書いた。
タイトル「太閤さん」は豊臣秀吉の事です。
昨年末より、駿府城公園の中から豊臣秀吉の築城した本丸、濠の発掘が話題となって、多くの歴史ファンが大勢集まって見学会が開かれている。
然し、徳川が政権を握り、豊臣の時代の城は、全て埋められてしまって、歴史に埋没してしまった。
徳川家の最後の将軍慶喜公の住まい跡は、現在の料亭・ホテル浮月楼です。
徳川慶喜公は、最後の将軍と言われ、趣味人とか、鳥羽伏見から江戸への戻りのタイミングが悪いとか?幕臣と最後まで一緒に居なかったとか、色々と言われているが、僕は大政奉還の仕掛けはウルトラCどころかウルトラZくらいの大技と考えている。
本来なら、これで政権は朝廷に戻り、徳川家も参加しての新政府の発足となる筈だったが、薩長連合はあくまでも幕府を倒しにかかった。
この時、最後まで戦った方が慶喜公の評価は上がったのか?
これは歴史の過ぎた話なので、IFはないので、誰にもわからない。
上記の本は、先日読んだばかりである。
太平洋戦争での犠牲者は310万人とも言われていて、そのうちの90%以上は、昭和19年以降の犠牲と推測されている。
転換点となったミッドウェー海戦は昭和17年6月だし、ガダルカナル撤退は昭和18年2月、80,000人以上が死んだレイテ島決戦は昭和19年〜20年で、昭和20年まで戦った沖縄戦の死者は、民間人を含めて20万人以上と言われている。
慶喜公の様に、深追いしなければ、この90%以上(250万人以上)の被害は出なかったかもしれないが、結果、粘った末の被害甚大となった。
されば、徳川慶喜公の評価は、もう少し見方が変わるのではないかと思う。
全ては、勝者の歴史であり、敗者の歴史は全てが悪と言うことになる。
勝者から言われる事は仕方ないにしろ、自国民の自虐的史観は肌に合わない。
記 ダボ・イトウ
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