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反対 VOL.4 – NO.338

道後温泉(松山)

今年のゴールデンウィークの旅行は道後温泉と小豆島に行って来た。

小豆島の話は、このブログ「満る時」(http://www.daiichi-printing.com/blog/05/4046/) と「相対」(http://www.daiichi-printing.com/blog/07/4193/)の中で少し書いた。

小豆島は松山の道後温泉に一泊した後に寄って来た。

松山は夏目漱石の「坊ちゃん」や司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名だ。

坂の上の雲に登場する海軍軍人秋山真之中将は、日露戦争のバルティック艦隊を破った日本海海戦で、

「敵艦隊見ユトノ警報ニ 接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。」の電文の後に、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

と記した人だ。

この「波高シ」との文は「洋上機雷(ロープで繋いだ)は使えんとの意味を持っている」と何か戦記物で読んだ記憶があるが、昔の事なのでよく解らん。

秋山真之中将

戦艦「三笠」艦上

松山では道後温泉で一泊した。

道後温泉と言えば、何よりも「本館」で、風呂に入ることにした。

明治27年に建てられたこの旧館は、木造建築で3層建てで、2階、3階の広間でくつろぐことが出来るが、今のリクライニングシートの完備したスーパー銭湯より体は休まらない。

何故なら座って寝ている人は居ない。

風呂場だって、薄暗いし、広さも小さく(神の湯)、着替える場所も現在のスーパー銭湯には劣る。

でも、人はひっきりなしに訪れ、まるで芋洗の様相であった。

何と言っても、現在道後温泉を訪れる人は、この本館が目的の一つで、入らなくても写真は撮る。

明治の創建期、朝の開館に合わせて太鼓を打って知らせたり、茶と菓子を出す大衆銭湯は珍しかった様で、以来道後温泉と言えば、この旧館を指す様になった。

正に将来を見据えた開発であった。

松山市からは距離も少しあるので、軽便鉄道まで作った英断は驚くばかりである。

この道後温泉100年後を見据えて計画したのは、道後湯ノ町初代町長だった伊佐庭如矢(いさにわゆきや)氏である。

伊佐庭氏は、当時の小学校教員の初任給が8円と言われた時代に13万5千円の計画を立案した。

当然、町の財政が破綻すると、町民から大反対運動が起こり、同氏の命が狙われる程の意見の相違が有ったと、「本館パンフレット」に記してあった。

でも、100年経った今では道後温泉の「本館」は全国に名を知らしめ、観光客も大勢来て、松山の発展に寄与している。

正しく反対を押し切っての英断であっただろう。

 

 

僕の会社の近くに、静清バイパスが通っている。

バイパスが計画された時、ある場所で反対運動が起きて、高架化されると車が素通りしてしまい地域の衰退に繋がるから、高架反対となり、通常の下を通る道路を作った。

これが20年も経つと渋滞の原因となり、今度は高架化の要請となり、高架が出来て、車の流れは改善した。

町長リコール成立

明治27年頃の本館

今週の始め、河津町町長のリコール請求が成立して町長が辞職した。

町立の複合施設の建設問題で、経費の増大が町財政に合わないと言う理由らしい。

(詳しい事はよく解らんので、新聞の記事によると、、。)

道後温泉本館が出来たのは明治27年(1894年)であるので、既に120年以上も経っている。

高架問題は20年程で、結論が出た。

どちらも先の事は解らない。

良いと思った事を信念を持って行う事だ!

伊佐庭氏がそれ程の反対にあっても、自分の給与を返上してまでも、道後温泉本館建設に命を懸けた事は立派である。

事業を推進する人の気迫は見習わねばならない。

反対を押し切る信念も大事だ!

聞く耳を持つことも大切だ!

結果は誰にも解らんが、投票は大切にしたい。

美穂さん頑張れ。

静岡地区から応援してます。

 

このブログと同じ事をゴールデンウィークが終わった後、「百年の大計」(http://www.daiichi-printing.com/blog/05/4037/)で書きました。

こちらも読んでみてください。

 

 

        記 ダボ・イトウ

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